『自分って何者?』と、ふと立ち止まってしまった夜
夜。
仕事を終えて部屋に戻ったカシコは、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらくスマホを眺めていた。
画面には、特に見るあてのないタイムラインが流れていく。
「〇〇な人」「△△をしている人」
そんな自己紹介の言葉が、目に入っては消えていく。
カシコ:「……みんな、ちゃんと”何者か”を持ってる気がするな」
独り言のようにつぶやいて、スマホを伏せる。
天井を見上げながら、さっきから同じ考えが頭の中をぐるぐる回っていた。
カシコ:「私って……何者なんだろ」
声に出してみると、思った以上に重たい言葉だった。
答えが出ないのは分かっているのに、つい考えてしまう。
カシコ:「得意なことがあるわけでもないし、
『これが私です』って言えるものもなくて……」
焦っている、というほどではない。
でも、置いていかれているような感覚が、じわじわと胸の奥に広がっていく。
カシコ:「このままじゃダメなのかな。
ちゃんとした答えを持ってないといけないのかな……」
そのとき、足元に、もやっとした黒い影のようなものが現れる。
形は曖昧なのに、存在感だけははっきりしている。
(ナゾタマが、静かにうずくまっている)
ワイズ:「ずいぶん、重たい顔してるね」
いつの間にか、机の上にワイズが立っていた。
カシコ:「あ、ワイズ……
なんかさ、最近よく考えちゃうんだよね。
“自分って何者なんだろう”って」
ワイズ:「うん。
考え始めると、止まらなくなるやつだ」
カシコ:「そう。
答えが出ないって分かってるのに、
出さなきゃいけない気がして……」
カシコはナゾタマに視線を落とす。
それは暴れるわけでもなく、ただそこに居座っていた。
ワイズ:「そのナゾタマ、
『何者かにならなきゃ』って言ってない?」
カシコ:「……言ってる気がする」
ワイズ:「大丈夫。
今日はそれを無理に消さなくていい」
カシコ:「え?」
ワイズ:「まずは、
どうしてその問いがこんなに苦しくなるのか、
そこから一緒に見てみよう」
「”自分は何者か”という問いが、苦しくなる理由」
カシコは、少し考え込むように視線を落とした。
たしかに、答えを出そうとするたびに、
胸の奥がぎゅっと縮む感じがしていた。
考えてみれば、不思議だ。
この問いはずっと前からあったはずなのに、
最近になって、急に重たくなった気がする。
カシコ:「ねえ、
自分は何者かって考えるのって、
変なことなのかな?」
ナゾタマを見つめながら、カシコはぽつりと言った。
むしろ、大事なことのような気もしている。
将来のことを考えるなら、避けて通れない問いにも思えた。
ワイズ:「変じゃないよ。
むしろ、多くの人が一度は立ち止まるところだと思う」
カシコ:「だよね……
なのに、考えれば考えるほど、
なんだか苦しくなってくるんだよね」
言葉にしようとするたび、
頭の中が空っぽになっていくような感覚。
答えが見つからない自分だけが、
取り残されている気がしてくる。
ワイズ:「それはね、
問いそのものが悪いんじゃないんだ」
ワイズ:「”自分は何者か”って問い、
いつの間にか”完成形を答えろ”って意味に
すり替わってないかな」
カシコ:「え?」
カシコは少し考えてから、ゆっくりうなずいた。
カシコ:「……たしかに。
私はこういう人ですって、
ちゃんと説明できなきゃいけない気がしてた」
ワイズ:「そう。
しかもその答えは、
できるだけ分かりやすくて、
できるだけ立派で、
できるだけブレてないものじゃないといけない、ってね」
カシコ:「……それ、結構ハードル高いね」
ワイズ:「高いよ。
だってそれ、”今の自分”に
“人生の答え”を出させようとしてるから」
少し沈黙が流れる。
ナゾタマは相変わらず足元にいるが、
暴れる様子はない。
ワイズ:「自分は何者かって問いが苦しくなるのは、
自分がダメだからじゃない」
ワイズ:「問いが、
“まだ途中の人”に向いていない形になってるだけなんだ」
カシコ:「……途中、か」
ワイズ:「うん。
本来は、歩きながら形が変わっていくはずの問いなのに、
立ち止まって、
“今ここで決めろ”って迫られるから、
息が詰まる」
カシコは、もう一度ナゾタマを見た。
それは「早く答えを出せ」と急かすようでいて、
同時に、答えが出ないことを責めているようにも見えた。
カシコ:「じゃあさ……
この問いって、どう扱えばいいんだろ」
ワイズ:「それを考える前に、
一つ、知っておいてほしい話がある」
「自分を答えにしなかった人の選択」
ワイズ:「さっきの問いに答える前に、
少しだけ、別の角度から話してみたいんだ」
カシコは、うなずいて続きを待った。
ワイズ:「自分は何者かを、
はっきりした言葉で説明しないまま、
ものづくりを続けた人がいる」
カシコ:「説明しないまま?」
ワイズ:「うん。
正確に言うとね、
何も言わなかったわけじゃない」
ワイズは、ゆっくりと話を続ける。
ワイズ:「”これが答えです”
“この作品の意味はこれです”
そうやって、
一つの言葉に回収することを、
意識的に避けていた人なんだ」
カシコ:「それって……」
ワイズ:「宮崎駿さんのこと」
カシコは少し驚いたように目を瞬かせた。
カシコ:「でも、宮崎駿さんって、
インタビューでは結構いろんなこと話してるよね?」
ワイズ:「そう。
世界のこと、人間のこと、
自分の違和感や不安も、ちゃんと語ってる」
ワイズ:「ただね、
“この映画は、こういうメッセージです”
とは、言わない」
ワイズは、静かに言葉を置く。
ワイズ:「”メッセージを伝えるために映画を作るんじゃない”
そうはっきり言ってる人だから」
カシコは、少し考え込む。
カシコ:「じゃあ……
何も考えずに作ってるわけでもない、ってこと?」
ワイズ:「もちろん違う。
むしろ逆だよ」
ワイズ:「作っている途中で、
問いやテーマが、
どんどんはっきりしてくるタイプ」
ワイズ:「でもそれを、
“分かりやすい教訓”や
“善か悪か”みたいな形にして、
観る人に渡そうとはしない」
カシコ:「……考える余地を残してる、ってことか」
ワイズ:「そう。
受け取る側が、
自分の経験や気持ちを重ねて、
それぞれに考える余地をね」
カシコは、足元のナゾタマを見た。
さっきよりも、輪郭がぼんやりしている。
カシコ:「答えを言わないって、
逃げてるわけじゃないんだね」
ワイズ:「うん。
単純な答えにしてしまわない
っていう、かなり強い選択だと思う」
ワイズ:「自分の考えや違和感は持っている。
でも、それを
“これが正解です”とは渡さない」
ワイズ:「その姿勢が、
結果的に、
長く受け取られ続ける作品を生んだんだ」
「意味を決めないという生き方」
しばらく、部屋に静かな時間が流れた。
カシコは、さっきから頭の中で
同じ言葉を何度も転がしている。
——答えとして語らない。
——単純な言葉にしない。
カシコ:「……なんかさ、
“意味を決めない”って聞くと、
ちょっと不安になるね」
ワイズ:「どうして?」
カシコ:「決めなかったら、
自分が何者なのか、
ずっと分からないままな気がして」
カシコは、足元のナゾタマをちらりと見た。
それはまだそこにいる。
でも、前よりも重たい感じはしなかった。
ワイズ:「うん。
そう感じるのは自然だと思う」
ワイズ:「意味を決めないって、
投げ出すことでも、
何も考えないことでもないからね」
カシコ:「……じゃあ、どういうこと?」
ワイズ:「”今の言葉で、無理に固定しない”
っていうだけ」
ワイズは、ゆっくりと言葉を続ける。
ワイズ:「人はつい、
“私はこういう人です”
“私はこうありたいです”
って、一文でまとめたくなる」
ワイズ:「でも、
その一文が先に決まってしまうと、
そこからはみ出る感情や経験を、
自分で切り捨ててしまうこともある」
カシコは、思い当たる節があるように、
小さく息を吐いた。
カシコ:「たしかに……
こういう人間だからって理由で、
諦めたこと、結構あるかも」
ワイズ:「意味を決めないっていうのは、
そういう可能性を、
すぐに閉じないってことなんだ」
ワイズ:「今は言葉にできない。
でも、続いている。
やめていない。
気になり続けている」
ワイズ:「それだけで、
十分”何か”はもう始まってる」
カシコは、少し考えてから、
ぽつりと口を開いた。
カシコ:「……じゃあさ、
“自分って何者?”って問いに、
今は答えがなくてもいいのかな」
ワイズ:「うん。
むしろ、その問いを
急いで答えにしない時間が、
必要なときもある」
ワイズ:「意味は、
あとから輪郭が見えてくることもあるし、
途中で、何度も形が変わるものだから」
ナゾタマは、消えてはいない。
でも、
答えを急かす存在というより、
静かにそこに置かれた
未完成の問いのように見えた。
カシコ:「……なんか、
分からないままでもいいって思えたら、
少し楽かも」
ワイズ:「それでいい。
今日は、
そのくらいで十分だよ」
「問いを変えると、見えるものが変わる」
しばらく黙っていたカシコが、
ゆっくりと顔を上げた。
カシコ:「ねえワイズ……
もしかして、”自分って何者?”って問い自体が、
ちょっと重すぎたのかな」
ワイズ:「いいところに気づいたね」
カシコ:「だってさ、
その問いって、
一つの答えを出さなきゃいけない感じがするんだよね」
ワイズ:「うん。
しかもその答えは、
分かりやすくて、ブレてなくて、
人に説明できるもの
であることを、
暗黙に求められてる」
カシコは、苦笑いを浮かべた。
カシコ:「それは……
しんどいね」
ワイズ:「だからね、
問いを少しだけ持ち替えるといい」
カシコ:「持ち替える?」
ワイズ:「”自分は何者か”を、
今すぐ決めようとしない代わりに、
こんな問いを置いてみる」
ワイズは、指を折りながら続けた。
ワイズ:「たとえば——」
ワイズ:「最近、なんとなく気になっていることは何か」
ワイズ:「やめようと思ったのに、続いていることは何か」
ワイズ:「説明できないけど、引っかかっている感覚は何か」
カシコは、一つひとつを
自分の中でなぞるように考えている。
カシコ:「……全部、
答えがはっきりしなくてもいい問いだね」
ワイズ:「そう。
今の自分に分かる範囲で持てる問いなんだ」
ワイズ:「それにね、
こういう問いは、
正解を出すためのものじゃない」
ワイズ:「”自分の輪郭が、どこにありそうか”を、
少しずつ確かめるためのもの」
カシコは、足元のナゾタマを見た。
カシコ:「……なんか、
“何者か”を決めるより、
“どんな方向を向いてるか”を見る感じだね」
ワイズ:「いい言い方だね」
ワイズ:「”自分って何者?”は、
ゴールを決める問いだけど、
今はまだ、
道を歩いてる途中かもしれない」
ワイズ:「だったら、
“どこへ向かってるか”
“何に引っかかってるか”
を見る問いの方が、
今の自分には合ってることもある」
カシコは、小さくうなずいた。
カシコ:「それなら……
今すぐ答えが出なくても、
置いておける気がする」
ワイズ:「うん。
問いは、
急いで片づけなくていい」
ワイズ:「ちゃんと、
育てるものだから」
「答えが出ていない今も、ちゃんと途中にある」
部屋の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
カシコは、もう一度足元に目をやる。
そこには、
最初に現れたときのような
重くて黒いナゾタマはなかった。
完全に消えたわけじゃない。
ただ、形がはっきりしなくなって、
急かすような気配も薄れている。
カシコ:「……なんかさ、
分からないままでもいいって思えたら、
ちょっと安心した」
ワイズ:「それはね、
問いが変わったからだと思う」
カシコ:「問いが?」
ワイズ:「うん。
「今すぐ答えを出せ」って問いから、
「しばらく持っていてもいい問い」にね」
カシコは、ゆっくりとうなずいた。
カシコ:「前は、
答えが出ないこと自体が不安だったけど……」
カシコ:「今は、
“まだ言葉になってないだけ”
って思えるかも」
ワイズ:「それで十分だよ」
ワイズ:「”自分って何者?”って問いは、
一度きりで終わるものじゃない」
ワイズ:「生きてる間に、
何度も形を変えて、
何度も戻ってくる」
ワイズ:「そのたびに、
少しずつ違う答えの影が見えるだけ」
カシコは、少し考えてから、
小さく笑った。
カシコ:「じゃあさ、
今は何者か分からない自分も、
ちゃんと途中なんだね」
ワイズ:「うん。
途中にいるってことは、
止まってないってことだからね」
ナゾタマは、
もう不安をぶつけてくる存在には見えなかった。
それはただ、
カシコの足元に置かれた
“まだ名前のついていない問い”だった。
ワイズ:「今日は、
答えを出さなくていい」
ワイズ:「でも、
問いを雑に扱わなかった」
ワイズ:「それだけで、
もう十分前に進んでるよ」
カシコは、
深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
カシコ:「……うん。
この問い、
もう少し一緒に持ってみる」
ワイズは、何も言わずにうなずいた。
自分って何者?という問いの、置き方について
「自分って何者?」と考えてしまうとき、
多くの場合、私たちは無意識のうちに今の自分に、完成した答えを求めてしまいます。
だから苦しくなる。
だから言葉が出てこない。
だから、自分だけが遅れているような気がする。
でもこの記事では、
その前提を一度、ゆっくり外してみました。
- 答えは、今すぐ出さなくてもいい
- 自分を単純な言葉に回収しなくてもいい
- 分からないまま続いているものにも、意味はある
「何者かを決められない自分」は、
未完成なのではなく、
まだ途中にいるだけなのかもしれない。
この記事は、
その可能性をそっと置いていくためのものです。
問いは、
無理に片づけなくてもいい。
でも、
雑に扱わないで、そばに置いておくことはできる。
この記事が、
あなたにとって
そのための小さな置き場所になっていたら、
それで十分だと思います。

